史上最悪のビル火災・千日デパート火災は何故起こったのか?


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ノートルダム寺院全焼の原因は修復職人の煙草の不始末だが、今も昔も煙草の不始末が原因で建物すべてが全焼する大惨事がある。

ホテルニュージャパンもそうだが、今回紹介する千日デパート火災は、日本最悪と言われるビル火災だ。


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現在はビックカメラなんば店が建つ跡地は、旅役者から出世した興行主・松尾國三が一世一代の複合商業施設を夢見て建てたビルだった。それが火災発生から10分と経たないうちに大惨事を引き起こす原因となったのは何だったのか。

客がいないはずのデパートで起きた大惨事


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千日デパート火災が起きたのは、1972年(昭和47年)5月13日。閉店から1時間半たった22時半ごろ、3階ニチイ千日前店北東側布団売り場付近から出火。比は瞬く間に上下階に燃え広がり2階と4階を焼き尽くし、火災で燃えた建材と内装材と化学繊維から発生した一酸化炭素と有毒ガスが上層階に上昇。

7階で営業していたキャバレー『プレイランド』に流れ込み、店内にいた客、ホステス、従業員は逃げ遅れ、死者118名、負傷者81名を出す大惨事となった。

客が居たのは7階のみで、何故火災発生時に、7階に連絡がいかなかったのか。

7階だけ避難勧告が届かなかった理由

千日デパートの全てのフロアには、火災に備え火災報知器があったが、連絡は1階にある保安室に行く様になっていた。1階にある保安室に火災発生の連絡が入った後、保安担当者は119番通報し、全フロアに避難勧告を出し、防火シャッターを下ろす仕組みになっていた。


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が、7階のプレイランドだけは、避難勧告は保安室から直接電話する様になっていたのだ。つまり別の階で火災が起きて全館一斉避難勧告が出ていたとしても、保安室から電話がなければ気付かないという事になる。それで煙が充満するまで客や従業員が気付かず逃げ遅れたのだ。

火災発生当時、連絡を受けた保安担当係は、瞬く間に3階が火の海に代わり気が動転し、7階への連絡を忘れてしまった。気が付いた時にはもう遅かったのだ。

7階のプレイランドからの脱出ルートは非常口、階段、脱出用の救助袋だったが、全て使えなかった。その理由はどこにあるのか。

唯一使えたはずの避難通路が使えなくなった

火災が起きて10分後、私用でエレベーターホールに居たホステス2名と客1人が、ホールに白い煙が充満しているのに驚き、北側エレベーターで下まで降りていき外に出る事が出来た。この3人は運よくエレベーターで避難する事が出来た最初で最後の客だった。

彼女たち曰く、エレベーターホールに出た時には、傍にいたボーイの姿を確認するのが難しいほどホールに煙が充満していたというのだ。

その後、ボーイはエレベーターが故障して動かなくなったのかと思い、同じ階の電気室を見に行ったが、黒い煙が充満しているのにおののき、火事だと叫び、ホステスが帰る時に使うB階段で避難した。この4人が初期避難者で、他は地獄を見る事になった。


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非常口の扉の先のA階段は客の無銭飲食を防ぐ為、扉に鍵が欠けられており、あける事もできなかった。ステージ脇のD階段からは屋上にあがる事もできたが、屋上は観覧車がある家族むけ娯楽施設になっている為、家族連れが間違えてキャバレーに入ってこない様にシャッターが下りていた。ホールから一番遠いC階段やB階段は、一酸化炭素と有毒ガスを含んだ黒煙と熱の渦で、人が通れる所ではなかった。

店内が停電したのは、火災が起きて15分後。暗闇の中で避難用の救助袋を求めボーイやホステスたちが窓に詰めかけた。だがこんな事態が起こると夢にも思わなかった従業員たちは、救助袋の日ごろの動作点検もしていなければ取扱も知らない。黒煙が店内に立ち込める中、適当に窓から放り投げた救助袋は中が広げられる事がないまま、途中の階のネオンサインに引っかかっていた。それでも『袋にぶら下がれば助かる』と信じ、7階から救助袋に握力だけでぶら下がった客が建物の2階の高さから地面に叩きつけられ絶命した。

では、何とか生き延びる事が出来た人、救助された人はどうだったのか。

はしご車が来るのをひたすら待ち続けた


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千日デパート火災の大惨事で、救出されたのは63人。犠牲になったのはその倍近い118名。
生き残った人は、喉を焼けつくす様な熱さと煙の中で判断能力を失わず、何としても生き延びるという信念の元、生き延びた。

折り重なる様に同僚や客が倒れている中、B階段を使い、7階から1階まで這うように歩き、たどりついたという女性。救助袋を使い地面に叩きつけられ死んでいく同僚を目の当たりにしながら、はしご車の救助を客と共に待ち続けたホステス。黒煙が充満する室内をバットで破り、救助を求め耐え抜いたバンドマン。

22人の人々が飛び降りて亡くなり、あたり一面が血の海になる壮烈な現場だったという千日デパート火災。犠牲者の死因の多くは煙による一酸化炭素中毒で、その数は93人にのぼった。


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千日デパート規模の建物になると、スプリンクラーを設置するのが当たり前だ。が、この当時法律ではスプリンクラーの設置が義務付けられていなかった。旧法律の基準で合法的に建てられた建築だった為、火災が起きた’72年当時の建築法、消防法に適合していなかったのが、大惨事を起こした原因だった。

千日デパート火災の翌年に、熊本大洋デパート火災が起こり、日本の建築基準法と、消防法が大きく改定されたが、それでも火災による惨事は後を絶たない。

千日デパートで亡くなったホステスは、この当時シングルマザーが多く、火災が起きた日は、翌日が母の日だった。この仕事が終われば子供と映画を観に行く約束をして亡くなった母親も居たという。
多くの命を奪った、火災の罪は大きいだろう。

千日デパート火災

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