墜落、失踪、倒産なのにランクA?呪われた航空会社・ヴァリク・ブラジルって何?


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日本では、チョっと遅れただけで電鉄会社は国民にボロカス叩かれるが、海を渡ったブラジルでは、最大30時間も遅れる国営の航空会社に国の英雄や大統領の遺体を運ばせたりするのだ。

しかもその会社が何度も事故、遭難を興した挙句に倒産していたのに、会社としてはランクAだとすれば。

そんなバカバカしい航空会社、ヴァリク・ブラジル航空会社が過去に起こした、とんでもない事故を拾ってみた。

1:操縦士と管制塔のいい加減さで燃料切れ→墜落(ヴァリグ・ブラジル254便)


©ja.wikipedia.org

操縦士のフライトプランの見間違いと、管制塔の注意散漫な指示のせいで燃料切れ、不時着。乗客乗員合わせ54名のうち、13名が死亡したヴァリグ・ブラジル航空墜落事故。

’89年9月3日、254便(ボーイング737-241)は乗客48名、乗員6名を乗せ、パラ州のマラバ空港から、州都ベレン空港に向かうはずだった。マラバからベレンは北北東。フライトプラン通りにいけば同じ州なので迷うはずもなかった。

離陸後30分。街が見えてこないどころか、ジャングルに突き進む飛行機に、どうも様子が変だと『わずか数名』の乗客が気づいたが、CAは乗客の意見を一蹴。これが墜落の道の一歩となってしまった。

一方、操縦席はパニックに。

254便は、マラバからベレンまで30分程で到着するはずだった。ベレン空港には離陸後23分で降下許可を管制塔に出していたが、返事ゼロ。長距離用の無線を使い、この時はなんとか通信に成功したものの、その後、肝心の着陸用の無線信号を受信する事が出来なくなってしまったのだ。

それだけでない。INS(慣性航法装置)で設定したベレンと全然違う方向に行ってる。見慣れた州都でなく、ジャングルへ進んでいくのだ。これであってるのか、操縦してるパイロットは、ますます不安になった。

クルーはジャングルの川の下流にベレンの街があると信じ飛び続けるという能天気な事をやっているうちに燃料切れを起こしジャングルに不時着。

原因は日本では考えられないポンチなものだった。

1:フライトプラン変更時に機長が休んでいた
2:事故当日、管制官はサッカーの試合をラジオで聞きながら指示を出していたので注意力散漫だった
3:1000キロも離れた所(マットグロッソ州サンジョゼドシングー)に不時着してるというのに、最後まで機長を信じていた

INSの方角設定は、フライトプラン変更前は『027』だったが、フライトプラン変更後『0270』となった。これはマラバからベレンへの方角、北北東が27度だったためである。

だが機長は誤って『270』と入力。その結果、マラバから真西のマットグロッソ州サンジョゼドシングーのジャングルに突き進んで行ってしまったのだ。

副操縦士は、この事故で瀕死の重傷を負ったのだが、副操縦士はフライトプランの過ちにうすうす気づきながら『機長が入力してるのだから大丈夫』と思っていたという。

燃料切れでジャングルに不時着したのが不幸中の最大で火災にはならず、254便は、軽傷の乗客、乗務員が近くを探して牧場をみつけ、救急要請をした事から、事故二日後に軍が救助に来たという。

ちなみに諸悪の根源となった機長と管制官は無傷だ。
この一件からブラジルでは飛行機の失踪を防ぐため、国をカバーできるレーダーセンスを設置し、フライトプランを変更した。

2:トイレから出火→飛行場の前で墜落(ヴァリグ・ブラジル820便)


©ja.wikipedia.org

’73年7月11日、リオデジャネイロ・ガレオン国際空港から、パリ・オルリー空港に向かうはずだったヴァリク・ブラジル820便(ボーイング707-320c)のトイレから発火し不時着。

乗客乗員135名のうち、生き残った乗客は1人、その他は乗務員で、生き残った機長が翌年に謎の事故を起こしたミステリー。

820便は順調に飛行し、着陸寸前までフライトを続けていた。
だが午後3時前にキャビンで火災が発生と緊急事態通信が入ったが、操縦室の計器も見えない程、機内に煙が充満し、機内の乗客は一酸化中毒で次々と倒れて行った。

目と鼻の先にあるオルリー空港に着陸しようにも、このままでは空港に激突する危険があると判断した機長は、空港付近に不時着する道を選ぶ。

空港手前5kmの所に、820便は不時着したが、その際に左翼が折れ、エンジンは脱落、500m暴走した末に炎上した。

原因は、乗客が火のついたタバコを、トイレのゴミ箱に捨てた事から火災が発生したという、
ホテルニュージャパン同じ様な、煙草の不始末が原因。

これ以降、お手洗いにスプリンクラーと、灰皿の設置が義務付けられ、灰皿も壊れていてはいけないと規則で決められるようになった。

疑問なのだが、本来禁煙であるはずの飛行機の中で、煙草を吸う人間がいるのかという質問に対し、FAA(Federal Aviation Administration(連邦航空局)は、こんな回答をしている。

機内禁煙にしようと、警告サインを表示しようとタバコを吸う奴はとにかく吸う。吸った時にその吸い殻を適切に処置できる場所を用意しておかなければならない。

そんな奴は、そもそも海外旅行もしなければ良いのだし、飛行機に乗らなければいいのではと思うのだが。

ちなみにこの事故で生き残った機長の判断は適切だったとされているが、翌年機長は思わぬ事故で帰らぬ人となってしまう。

3:航空機遭難(ヴァリグ・ブラジル967便遭難事件)


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’79年1月30日、ヴァリク・ブラジル967便(ボーイング707-320F貨物機)が、新東京国際空港(現成田国際空港)を離陸した後、行方不明になった事故。

967便は当時、毎週火曜に18時に新東京国際空港(現成田国際空港)を離陸、11時間後に米LA国際空港で給油、ベルーのリマ経由で、サンパウロのヴィラコッポス国際空港に向かう貨物便だった。

事故当日、967便は離陸30分後の20時53分に、銚子沖740キロメートルの太平洋の位置通報地点の通信を最後に消息を絶った。
遭難当初は、通信周波数が変わったためと考えられていたが、燃料切れとみられる時刻になってもどの空港にも着陸履歴がない事から、海上保安庁による捜索が始まった。

遭難したとみられる地点は、日本海溝の水深が5,000メートル以上あると言われている深海。当時の技術では探知不可な所に機体が水没したのではないかとみられている。

その為、本来であれば墜落後も電波を発し続けるフライトレコーダーやボイスレコーダー、墜落後に海面に浮かぶはずの燃料といった手掛かりが、今日に至るまで見当たらない。

同機の主な積載品は、雑貨や自動車部品で、事故機となった967便が積載してたものは、当時、読売新聞社が日本ブラジル移民70周年を記念して主催した『ブラジルのピカソ』と言われた『マナブ間部展』の絵、100点だった。
総額20億に及ぶ絵が967便の遭難により失われ、マナブ氏は、14年かけて、水没した絵を描きなおしたという。

事故で死亡したのは乗員6名(機長、副操縦士とセカンドオフィサー・航空機関士各2名ずつ)で、機長は、ヴァリク・ブラジル820機の機長と同じだった。

気候、超常現象、陰謀説と、事故後40年経過しているが、事故原因には諸説ある。

4:ブラジル最古の航空会社栄枯盛衰?

ヴァリグ・ブラジル航空の創業は、1927年。ドイツ移民の、オットー・エルンスト・マイヤーが設立。

12人乗り(3人の乗務員と9人の乗客を定員とする)で、巡航速度180キロの双発水上飛行機を購入し、マイヤー自身が操縦していたが初フライトは、彼の友人一人だけと、なんとも寂しい門出だった。

第二次世界大戦勃発時には、ドイツ一色になった航空会社は経営が傾いた為に、米国人が経営にバトンタッチ。この頃から経営が派手になる予感がする。

高度経済成長期にジャンボジェットがバンバン投入されたのを見て、ヴァリグ・ブラジルもジャンボジェットを投入、国際線の運営に乗り出し、他の航空会社を吸収合併し会社の規模を大きくした。ここまでは良かった。


©booking.com

だが日本のバブル経済の様に、いい気になった経営陣は、航空事業だけでなくホテル経営に乗り出し、赤字を出してしまい、格安航空会社の波に乗り損ねてしまう。

肝心の航空路線も古い機体を整備もせずに使いまわした為に、経営はどんどん傾き、一度も定時に発着した事がない航空会社という悪名までついてしまった。

’06年には飛行機のリース料も払えなくなり、’09年には事実上の倒産。

日本には、’68年から成田空港に乗り入れ、’04年には名古屋空港にも乗り入れを拡大したが、’05年に会社更生法を受けたヴァリク・ブラジルは、撤退せざるを得なくなった。成田の利用権だけでも確保しようと貨物便を入れるべく粘ったが、それもムダな抵抗に終わった。

こんな航空会社に、ブラジルは『国を代表する航空会社だから』という理由で、F1ドライバー・アイルトン・セナの遺体の空輸や、歴代大統領の遺体を運ぶのにも使ったという。

事故は起こすわ、遭難するわ、最大30時間も遅れるわ、挙句の果てに倒産するわ、なのにランクA。正直いっていい所が見つからない航空会社なのだが、そんな会社が何故80年も存在していたかという事の方が、いまやミステリーかもしれない。

ヴァリグ・ブラジル航空

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