ホテルニュージャパンのオーナー横井英樹って誰?


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派手な企業買収劇と言えば、阪急阪神の株買い占めでしられる村上ファンドが記憶に新しいが、昭和から平成にかけて、彼らに負けず劣らずの資産家が居た。横井秀樹である。

別名『貧乏えびす』、『蝶ネクタイの乗っ取り屋』。
人たらしでありながら寄ってきたものを悉く潰すと言われた男だった。

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昭和のホテル火災として有名な『ホテル・ニュージャパン』の元オーナーと言われた悪名高き実業家だ。

横井英樹の本名は、横井千市。
愛知県中島郡平和町(現・稲沢市)の貧しい農家の次男として生まれた。本名の由来は祖母が『千両箱』からつけたものだったが、横井氏は名前が気にくわず改名した。

父親の鉞次郎(えつじろう)は、19の時に手術の後遺症で足が悪くなってから仕事をしなくなり、酒乱となり、妻(横井氏の母)政(まさ)や子供たちに暴力を振るい、学校に行くなと暴れ倒していた。一家の家計は母親の紡績工場の稼ぎだけだった。

横井は母を不憫に思い学校に通いながら、小学校の時から働き始め、高校1年で中退。浴衣、草履姿で上京し、千市という本名を英樹に変えた。


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上京後、日本橋のメリヤス問屋『渡辺商会』に丁稚奉公後、独立。終戦直前に軍需品製造に専念した『横井産業』という会社に変え、全国各地に工場を展開。終戦後は軍需からみの紡績産業が下火になる事を見越して、不動産に転業した。

戦後は鎌倉、熱海、軽井沢などの別荘地を買いあさり富裕層に売りつけ、そのもうけで銀座を買い、後に土地の価格が高騰。この時点で横井の資産は20億となり、横井は政財界が絡んだ事件を引き起こす事になった。

大金持ちや実業家になった男といえども、生涯コンプレックスに持つ事といえば、氏素性、学歴、地位名誉だそうである。横井は『なりあがりの田舎者』とみられない為に、歴史に残る大手企業買い占め事件を引き起こし、つまらないプライドが故に戦いに敗れた人物ともいえる。


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横井は、1953年(昭和28年)、老舗百貨店・白木屋(東急百貨店日本橋店→コレド日本橋)買収を試みる。後の『白木屋買収事件』である。

発行株式の4分の1を超す102万8000株を買うに飽き足らず、日活の堀久作と手を組み発行済株式総数400万株のうち100万株を買い占め、過半数の持ち株を買い占めた。阪神阪急を買い占めようとした村上ファンドの様な事はこの時代からあったのである。

白木屋の経営陣は、成り上がりの田舎者に株を買い占められた事に驚き、この様な形で横井を重役に迎え入れる事は出来ないと強く反発。

横井は強気の姿勢をみせ何としてでも白木屋を乗っ取ろうとしたが、土壇場で日活の堀は手を引いた為、横井の計画が狂ってしまう。

買収劇は、総会屋、銀行、ヤクザ、証券会社の大物を巻き込み株主総会では決着は付かず法廷闘争まで及んだ。結果として東急百貨店の創業者・五島慶太が話を取りまとめるまでになったが、横井はこの買収劇で5億8000万の赤字を出してしまう。


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これに懲りず、横井は1959年に東洋精糖の買収を試みるが、莫大な損害を出しただけでなく、五島氏の死去や、長男から縁を切られるという犠牲を叩く事となった。


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白木屋買収失敗、東洋精糖買収にこりず、横井が次に目をつけたのは富士屋ホテルだった。

富士屋ホテル買収で対決する事になったのは、五島の門下生だった小佐野賢治で、彼は先に箱根の強羅ホテルを手にしていた。

小佐野といえば、ロッキード事件の証人喚問で『記憶にございません』を連発したあの人である。


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明治時代に建てられた由緒あるホテルの経営権が会長の次女の婿養子・堅吉の後妻である千代に行くか、会長の長女に行くか御家争いが起こったのだ。前者に経営権がいけば創業者と縁もゆかりもない人間に経営権が渡る事になる。

が、堅吉が態度を変え『横井さえおいだしてくれれば何でもいい』と小佐野と他の親族に迫った為に、形成が変わり、横井はまた買収劇に失敗した。

そんな横井が、念願の会長職につけたのはどこだったのか。それがあのホテルニュージャパンである。

1979年(昭和54年)横井は、大日本製糖の社長・藤山寛一郎に懇願され、ホテルニュージャパンの会長職につく。
だが行き過ぎた合理化で、スプリンクラーを設置せず対火性素材を使用せず改修を怠った為、’82年に歴史に残る火災が発生。死者33名が出た。

あの火災でビルの防災設備のずさんさと、救命よりも家具を先に運び出したという横井の人間性、運営違反が問われ、1987年、東京地裁で業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決を受け、1993年に最高裁で確定。
’94年に八王子の医療刑務所で服役し、’96年に仮釈放となった。

だが全く懲りていない横井は、ホテル跡地を’95年に落札し、仮釈放中に解体。跡地にプルデンシャルタワーを建てていた。


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晩年は資産のほとんどを手放し、田園調布の一等地に構えていた家も死去する一か月前には手放し、最後に残った資産の一つがダイエー碑文谷店だったという。

私生活に恵まれていたとはいえず、絶縁した息子、邦彦は東宝の清純派女優・星百合子と結婚したものの離婚し後に自殺。

’91年に愛人の娘にエンパイア・ステートビルを買い与えようとしたが、所有権でもめた事も。

1998年(平成10年)11月30日、急に気分が悪くなり、そのまま昏睡状態に陥り病院に運ばれ、虚血性心疾患で死去。85歳であった。

横井英樹

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