産まれて来る赤ちゃんの25人に1人が未熟児と言われる現代。産まれてすぐ保育器に入れられてしまう赤ちゃんだけでなく、NICU(新生児特定集中治療室)に搬送される子供もいる。
保育器は、未熟児としてうまれた赤ちゃんにとって命綱も同然だ。肺や心臓など各機能が十分に発達せず産まれてきたため、保育器は赤ちゃんの発育を助けるため、出来る限りお母さんのお腹の中に近い環境になるよう改善が施されてきた。
保育器の原型は20世紀になる少し前に出来たとされているが、本格的に世界に広めた男性の存在は、意外にも知られていない。今回は、保育器を世界に広めた男の話をしよう。
人工中絶の横行から生まれた保育器発明
©wikimedia.org
未熟児医療の先駆者と言われるのは、フランスの産婦人科医・ピエール・コンスタント・ブーディン(Pierre-Constant Budin)だ。
帝王切開など、産科手術がしていなかった19世紀、お産は産婦の命を守る事が優先され、胎児は未熟児のままでも強制的に出産させる人工早産が横行していた。
8カ月で生まれた子供より、7カ月の早産の子供の方が丈夫というヒポクラテスの根拠のない説に世間が振り回されたのもある。これに異論を唱えたのがブーティンだった。
ブーティンは人工早産により未熟児が多く生まれ、産まれてきた赤ちゃんが死んでいくのを目の当たりにし、保育器の原型を発明。彼の元には医師や医大生が次々に弟子入りした。
保育器を世界に広めた男
©digitalcollections.nypl.org/boredpanda.com
マーティン・コーンは、プロイセン(現在のドイツ)に生まれ、ライプツイヒ大学医学部在籍中に、ブーティンの功績を知った。
これからは大人の疾病を治す医療だけでなく、子供の病気や、産まれて来る子供のケアに焦点があてられる事を予測したマーティンは、医大生時代にブーティンに弟子入り。
©digitalcollections.nypl.org/boredpanda.com
ブーティンが、1880年代に保育器の原型を発明すると、改良を加え、1896年に首都ベルリンの大工業博覧会に、出品した。出品した当時は賛否両論の嵐だったが、マーティンはそれでもあきらめず、欧州諸国の展示会に保育器を出品。次第に認められる様になり、本国で新生児ケアの専門家として名前が知られるようになった。
20世紀に入ると、マーティンは先進国や、医療に力を入れている国々に積極的に保育器を売り込み、最終的に渡米、米国で本格的にビジネスを広げようとした。だが、そこで思わぬ批判にさらされることになる。
保育器は見世物小屋じゃない
©digitalcollections.nypl.org/boredpanda.com
マーティンは、本名マーティン・コーンをマーティン・カーニーに変え、米国で保育器の売り込みをはじめた。
現在、医療機器メーカーが売り込みをかけるのは病院だが、マーティンは医大を中退した医師国家資格のない『自称医師』。保育器を売り込むためにNYに路面店を作り、悪徳ペットショップまがいの保育器販売店を経営していたのである。
©digitalcollections.nypl.org/boredpanda.com
マーティンが責められるのも無理はなく、未熟児の赤ちゃんをもつ親から無料で子供を預かり、治療費を負担する代わりに、店に訪れる人には『赤ちゃんをご覧になるためには入場料25セントをお支払いください』というのだから、各メディアは一斉にマーティンを叩いた。
保育器の維持費は一日15ドル。当時の15ドルは’19年現在の貨幣価値になおすと400ドル(約43500円)。写真を見ても判る通り、当時の保育器は、簡易電話ボックスの様で、保育器に入れられている赤ちゃんは路面店の外から丸見え状態。メディアでは批判の嵐にさらされたマーティンのビジネス手法だったが、人々は25セント支払い、マーティンの店を訪れた。
©digitalcollections.nypl.org/boredpanda.com
保育器は24時間、母親の体温と同じ温度に保たれ、2時間おきに看護婦が赤ちゃん1人1人のケアをするシステムになっていた。戦前の米国にしては画期的なシステムであり、病院が視察に訪れた。
人生で6500人の赤ちゃんを救ったが…
©nypost.com
マーティンは、率先して保育器の普及に尽力をつくし、最終的に6500人の未熟児の命を救ったと言われている。
その後、各総合病院に産婦人科が出来、保育器が導入され、マーティンの路面店は姿を消した。マーティンは、師であるブーディンが貧しい人々にこそ医療が必要と言ってた事を守れなかった事や、資格をもった医師として、保育器を広められなかったことを悔いて、戦後表舞台から姿を消した。
今でこそ当たり前だが、新生児ケアにあたる看護婦たちに対し、禁酒禁煙を徹底させたのもマーティンだ。守れなかった看護婦は容赦なくクビにした。
米国で『保育器を広めた男』として伝説になったマーティンだが、彼の末路はあまりにも無残だった。マーティンは、1950年代、先進国の医療機関で未熟児の対応が整った頃、無一文でこの世を去った。
©nypost.com
だが彼の功績は『命』となって輝いている。上の写真の赤ちゃんは、この写真の老婦人、ベス・アレンさんだ。弁護士の彼女は、写真を見て自分だと判ったという。