英国バッキンガムシャーに住む服飾デザイナー・リズ・ヒューストンは、公私共々満ち足りた人生を送っていた。だがそんな彼女に転機が訪れたのは4年前の1月。自慢の長男を交通事故で亡くしたことだった。
『ウィル(長男)の事がなかったら、私は、公私共々恵まれていて、鼻もちならない人生を送っていたかもしれないし、哀しみに暮れる人に手を差し伸べることもなかったと思うの。』息子の死を乗り越え、服飾デザイナーとして走り続ける彼女が選んだ人生とは、どのようなものだったのか。
何もかもが順風満杯だった
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リズは、英国の女性にアーバン・スタイルファッションを提供するブランド『Mint Velvet』のCEO。’09年から子育ての傍らブランドを立ち上げ、子育ても一段落つき、何もかもが順風満杯、軌道にのったのが4年前だった。
PR会社に勤める優しい夫リチャード、大学1回生の次男トム、中学3年のソフィー、そして、長男で大学2回生のウィル。
ウィルはハンサムで謙虚、ポーツマス大の二回生で、スポーツ科学を専攻し、卒業後はプロのバイクライダーになる予定で、リズとリチャードにとって自慢の息子で、兄弟たちにとって誇るべき存在の兄だった。
4年前の1月、リズは、いつもの様にバッティンガムシャーの本店に出かけ、息子や娘を送り出した。仕事先に夫から電話が入ったのは、それから数時間後の事だった。長男のウィルが事故にあって大学病院に搬送されたというのだ。リズはいつもの冗談だと軽く受け流そうとした。だが電話の向こうの夫は、深刻な声だった。
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『リズ、冗談じゃない。本当の事なんだ。ウィルは死んでしまうかもしれない。覚悟してくれ。
リズが大学病院に到着した時には、リチャードは病室の外に居た。担当医師がリヂャードに容態を説明した後なのか、彼は深くうなだれていた。リズは、担当医師にウィルは助かるのか、延命措置はしたのか何度も聞いたが、リチャードは静かにそれを制した。
『無理だ、リズ。もうウィルは助からない。』
ウィルが亡くなった原因は、高齢の女性が運転する車に轢かれたからだった。ロードバイクが飛び出してくるのを、高齢の女性では見分けられなかったのだろう。ほぼ即死にちかい状態だったのか、ウィルはどこにも傷がない状態だった。だがもう目は覚まさない。脳死状態だった。
リズは、あまりの憤りで、その時何を言ったのか覚えていないという。たしかに日本でも高齢者の免許返納が叫ばれている一方で、ロードバイクや自転車の飛び出しについては、注意喚起がなされている。どっちもどっちの状態だ。
『ウィルは大学卒業後、プロのバイクライダーをしながら、障碍者専門のパーソナルトレーナーになるはずだった。ロードバイクが路上を走るリスクは何よりも判っていたはずよ。』
そんな哀しみに暮れる両親を救ったのは、何だったのか。
さよなら、ウィル
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ウィルは、18の時からドナーカードを持っていた。
自分に万が一の事があった場合、自分の臓器を全て提供してほしいというものだった。リズは、NHS(国民保険サービス)の臓器提供担当を呼んで、息子の臓器摘出、提供を願い出た。臓器摘出後は、ウィルは棺に入れられ遺族の元に戻ってこない。
臓器摘出前に、リチャードとリズは、まだ生きているかのような息子の寝顔に最後の別れをした『さよなら、ウィル。皆の役にたつのよ。』
ウィルの遺志により、出来る限りの臓器を提供するという事で、心臓、肺、腎臓、肝臓、腸、骨髄、皮膚、角膜が取られた。骨髄と皮膚は臓器バンクに保存され、他は相応しいレシピエントがすぐに見つかった為、移植手術が行われた。
結果として、ウィルの角膜は4人の目に光を灯し、心臓は1人の男性に、腎臓は透析が必要だった50代の男性に、肝臓は先天性の肝臓の病だった3つの子供に、心臓は1人の男性に、その他の移植結果も合わせると12人の命や障害を救ったことになった。
『自分の息子の臓器が12人の命を救って人生を変えたとは思わなかったわ。』リズはウィルの残した功績に驚いた。
ドナーとレシピエントは、お互いの存在が匿名であってこそという暗黙の了解とはいえ、突然息子を失った哀しみはまだ癒えない。
『厚かましいかもしれないけれど、私の様な遺族は、臓器という形でも、息子が誰かの体の中で役にたって生きているという証拠が欲しいのよ。息子は突然死んでしまった、生き急いでしまった息子が、何を残したのか知りたいという思いもあるの。』リズは、NHSの臓器移植コーディネーターと組んで始めたサービスが『Don’t Forget The Donor』だ。
このサービス、どういうものなのか。
ドナーに何か一言書いてほしい
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『Don’t Forget The Donor』は、リズが、NHSの臓器移植コーディネーターと共に立ち上げた団体で、ドナーの遺族とレシピエントを繋ぐものだ。
ドナーとレシピエントは原則、匿名で取引され、個人情報を漏らさないようにすることが求められる。だが今回の場合はその逆だ。あえてドナーとレシピエントが交流することを前提にした。
『Thank youって二文字だけでもいいの。ありがとうって2文字や、元気にしてますって写真だけでもいいわ。私なら、それだけでウィルが今でも貴方の体の一部として生きているという存在価値を認めて貰える気がするんだもの。』リズはそういう。
リズは、レシピエントが、この様な手紙をドナー宛に書く事がいかに難しいか判っているが、あえてチャレンジした。ドナーの中には、レシピエントから手紙を貰っても嬉しくない人もいるかもしれない。だからこそ最初の手紙のやり取りは匿名にしておき、レシピエントもしくはドナーが好意的だった場合、お互いの気持ちが通じた場合のみ、個人情報を公開し、個人的にやりとりするというのが『Don’t Forget The Dornor』だ。
リズも、12人いるドナーの中で『Don’t Forget The Donor』を通じて連絡が取れたのは、8人。残りの4人は、母国語が英語でないか、移植時に匿名を希望するという理由で連絡がとれなかった。殆どのレシピエントは『ありがとう』という2文字や、『貴方のおかげで命が助かりました』という一文のみだった。
何故この一文のみなのか、ウィルの臓器を提供された12人のレシピエントの家族の中で、唯一、リズと連絡をとる人物がその心境を語った。
貴方とウィルが私の命を救ってくれた
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『レシピエントがドナーに感謝の気持ちを表すのは、何よりも難しい事なの。リズの様に、最愛の息子の命を奪われた末、ドナーとなったのであれば、なおさらよ。』そう語るのは、3歳の息子の肝臓移植を受けた母親だった。
3歳の息子は先天性の肝臓の病で、移植をうけなければ5歳まで生きられないと言われていた。『移植を待ち続けていたけれど、適合する肝臓もなく、途方にくれていたわ。息子は死んでしまうんだと毎日泣き明かしてたの。そんなときにウィルの肝臓が提供されてきた。神様からの贈り物だと思ったわ。』
が、その後この母親は、『Don’t Forget The Donor』を通じ、ドナーが交通事故死した20歳の若者のものだと知り愕然とする。将来を嘱望されていた若者が死に、自分の息子が助かったのだ。気持ちは複雑だった。知らせてくれたNHSの臓器移植コーディネーターは、最初はドナーの情報を知りたい人に知らせ、希望者は最初は匿名でやりとりし、それでもOKなら、ドナーとレシピエントで個人的にやりとりしてもいいと勧めてきた。
ウィルの肝臓により、幼い息子の命が助かった母親は、最初は匿名でやりとりし、そして、リズに手紙を書く事にした。『今まで手紙を幾度となく書いていたけれど、この手紙ほど書くのが難しいものはなかったわ。感謝してもしきれないけれど、向こうの息子さんにとっては不幸なのでしょう?』
そうしてこの母親はリズ宛にこう書いた『リズ、貴方と、貴方の息子さんウィルは私の息子だけでなく私の心も救ってくれました。貴方の息子さんウィルは私の息子の中で活き続けています。私や私の息子がウィルを思わない日はないでしょう。
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リズは、この手紙に感動し、息子ウィルの生前の写真を送った。その方が、御礼の文面よりなにより伝わるだろうと思ったからだ。リズから写真を受け取った母親は驚いた。俳優の様なルックスで将来を嘱望されていた息子が突然の事故で亡くなっただけでなく、全身の臓器提供を申し出たドナーだったのは、どんなにショックだっただろうと。
3歳の息子が肝臓移植を受けた母親はリズにこう手紙を書いた『写真を送ってくださってありがとう。私の息子にも見せました。息子に貴方の命が誰のおかげであるのか、言って聞かせます。』
リズは、12人のレシピエントの中でも、こうして1人だけでも返事が来たことがありがたいという。
『ドナーの遺族は、レシピエントから手紙を貰ったら辛いかもしれない。でもレシピエントから感謝や近況の手紙をいただいたとすれば、感謝しなければいけないわ。感謝を喜びに変えてほしいの。』
NHSの臓器移植コーディネーターで『Don’t Forget The Donor』のコンサルタントとなったアンジー・ディッチフィールドは、ドナーとレシピエントが連絡をとるのに段階を踏んだ理由を語った。
『医療に関わるものの視点で言えば、ドナーのレシピエントの関係は匿名性が保たれている方がいいの。でもドナーの遺族もそれぞれで『ドナーが臓器となってもだれかの役にたっている、生きている証が欲しい』という人もいる。今回のリズの様に。そういう場合だけ、段階的にコンタクトをとるのも、一種の癒しになっていいんじゃないかと思うのよ。』
ママ、僕は他の人の所で生きてるから大丈夫
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ウィルが亡くなって4年、ウィルの弟トムは23歳、兄の年を追い越し、結婚し息子が生まれ、名前をウィルJr(三ヶ月)にした。ウィルの事故当時中学生だった長女ソフィーは来年大学生になる。時がたつのは早いが、リズの心の傷は完全に癒えたとは言えない。今でも事故のことを思い出すことはあるという。
『今でも夢にみることがあるの、息子を見送ったあの時のことを。さよならウィルって言ったあの時のことを。何をいっても息子は戻ってこないわよね。そんなとき、ウィルが私に尋ねてくれる気がするの、『ママ、僕は他の人の所で生きているんだから大丈夫』って』