史上最速の音速の女性と言われたジェシー・コムス(Jessi Combs)が、’19年8月27日(現地時間)米国オレゴン州アルヴォート砂漠で行われたFIA非公式の自動車速度記録で事故死した。享年38歳だった。
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ジェシーは、国内で数々のレーシングチームに所属し、優勝経験を積んだ後、’13年よりジェットエンジンを搭載し、自動車速度記録(Land Speed Record)を競うレーシングチームに移籍。自らたたき出した記録を塗り替え、キティ・オニールが出した女性最速記録を破ろうとしたが、叶わなかった。
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日本国内では、あまり知名度がないが、北米や西部では絶大な支持を誇るジェシー・コムズの生涯と、彼女を死に追いやった速度記録レースについて辿ってみようと思う。
最速の美女レーサー・ジェシー・コムズって?
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ジェシー・コムズは、’80年7月に、ハーレーの聖地サウスダコタのスタージスの隣町・ロックヴィルに生まれた。両親の離婚後、母方に引き取られ、奨学金を得て、インテリアデザインを学び、高校を卒業した後は、プロのスノーボーダーとして生計を立てながらデンバーに拠点を置き旅する日々。
だが怪我でプロの道を断念し、西部のララミーに移住。ワイオミング工科大に入学し、金属工学を学び、小さい頃からの憧れだった自動車デザインについて学ぶことにした。卒業制作で作ったレーシングカーが、彼女に本格的にカーレースの世界にのめりこませる事になる。
元々バイクレースに興味があった彼女は、四輪でもめきめきと才能を発揮し、’07年には地元のレースにも参加。美貌と才能からTV局が目を付け『Xtreme 4×4』などレギュラー番組を持つ様になった。
ドライバーとナビゲーターが乗り、ハマーが競い合う『Ultra 4 king of the Hummers』で女性初の優勝をおさめたジェシーは、他のメディアからも引っ張りだこになり、母校の広告塔にもなった。
ついには、ディスカバリーチャンネルで放映されている都市伝説検証バラエティ『Mythbuster(怪しい伝説)』に登場する事に。
’07年、ジェシーは、サウスダコタのスタージスで開かれた恒例のバイクレースで、こう語っていた『10年前は、女性がハーレーやトランザムに乗ってレースに参加するなんてって、西部では言われていたわ。今はこうして堂々と参加できる。世の中の変化に感謝しなくちゃね。』
彼女は、自分のチャレンジスピリッツや、レーサーになるべき運命は、曾祖母から来ていると自負していた。
彼女の曾祖母は、1920年代にタイヤメーカー、グッドリッチに勤めながらジャズピアニストをしていた、ニナ・デヴォー(Nina BeBow)。サウスダコタ西部デッドウッドに住み、男勝りな自由人だったという。
女手一つで家族を養い、当時高価だった車を買い、メーカーの広告塔になるため、車で回りながらピアノの弾き語りをしていたという彼女の曾祖母。いつも夢に向かって前向きで生きていきたいという彼女のスピリッツは、ここから来ているのだ。
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そんな彼女が、レーサーとしての新たな一歩を踏み出すために、挑んだのが、Land Speed Recordだった。前途ある彼女の命を奪った速度の限界に挑むプロジェクトとは何なのか。
過酷さを増す自動車速度記録レースとは?
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ジェシーの命を奪った、自動車の速度記録(Land Speed Record)は、年々競争が激化し、自動車メーカーだけでなく、レーシングチーム、軍までが参加するプロジェクトになっている。
FIA(国際自動車連盟)公式と非公式のものがあり、公式のものは、以下のルールが決まっている。
1:4つ車輪のある車輛を使う
2:1マイルの平均速度を測定する
3:1時間以内に往復する
4:道路の勾配は1%までとする。
戦後規定が設けられたが、4つの条件を満たさないと公式記録に認定されないので、’97年以降は認定記録が出ていない。
片道だけで音速を突破しようとする車輛が出てきたり、三輪で音速を狙おうとする自動車チームが出てきたりと、『非公式最速記録』を狙おうとするチームが出てきているのだ。ジェシーが所属するチームもその一つだった。
ジェシーは、’13年に、平均時速632km/h、最高速度709km/hを記録し、あともう少しで、女性最高記録を持つ、キティ・オニールに届く所だった。キティ・オニールが持つ最高記録は、最高速度1100km/hだった。これが亡くなる一日前に彼女のインスタに投稿された写真だが、最速を記録した際にマシントラブルがあったらしい。
だが記録を選んだ彼女は、命を奪われてしまった。
自動車速度記録の競争激化の最前線を行くのは、’97年にFIA公式記録を出した、英軍がバックアップしているスラストSSCだ。パイロットは元英国空軍中佐のアンディ・グリーン。
’20年に記録挑戦予定のスラストSSCの改良型『ブラッドバウンドLSR』は、ジェットエンジンとロケットエンジンをダブルで搭載した、とんでもない代物で、実現すれば、13万5000馬力、1600km/hの音速突破マシンになる。まさに男社会、軍人社会だからこそ実現できた代物といっても過言ではない。
誰からも愛される女性だった
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まだまだ男が幅を利かす自動車レースに、肩で風をきって入り込んでいったジェシーの死は、悼まれるべきだと思う。
彼女は父親、母方の親族に兄弟も多く、小さい頃から、仲良くしていて、’13年にチームメイトとなったテリー・マッデンとは、結婚の約束もしていた。事故の直後、彼女の元に一番に駆け付けたのはテリーだった。『事故の直後の事は思い出したくない。ジェシーが元気だった時の事だけをチームメートは考えているんだ。』テリーはメディアのインタビューに、こう答えている。
ジェシーの家族のものも、未だにジェシーの死を受け入れられずにいるという。『誰からも愛されていて、夢は努力すれば叶うと体現してくれる子だった。目まぐるしい程忙しいはずなのに、誰に対しても親切で頭脳明晰。誇らしい子だったわ。』ジェシーさんの母ニーナ・ダリントンさんは語る。だが、’!3年に今のチームに参加してから、ジェシーは家族から遠くなってしまったような気がしたとも語っていた。
自分自身と戦い続けるストイックな女性に変わってしまった、以前の様に夢を大らかに語る事が、なくなってしまったという。家族のものは、ジェシーさんの運命の変わる時を感じていたのかもしれない。
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女性の最速記録保持者、キティ・オニールは、スタントウーマンとしてハリウッドで活躍していたが、同時期にスタントマンとして活躍し『トランザム4000』を世に送り出したハル・ニーダムらに比べ、作品や活躍の場に恵まれず、’18年に世を去る事になった。
それを考えると、ジェシーは、短い人生の間ながら、自分のやりたい事をやり、功績を残し、希望を残して華々しく散っていったのではないだろうか。