時は35年前の1月の末。
名古屋市昭和区の第一勧業銀行(現:みずほ銀行)で従業員の給料102万円を下ろしに来た会社社長の金を奪おうとした男が逆に取り押さえられ逮捕された。
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この男、引ったくりだけではなく、恐るべき前科の持ち主だった事が捜査で明らかとなる…。
会社社長を脅した男の名は、勝田清孝。
京都の消防局に勤務しており真面目で幹部候補と言われていた男だった。だが彼は生まれた時からエリート街道を歩んでいたわけではなかった。
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1948(昭和23)年、京都府の農家に生まれ、高2の時に、引ったくりで少年院送りとなり学校を退学。少年院を出た後は、トラックの運転手などを経て、周囲の反対を押し切り隣町の女性と結婚。
その後、1972(昭和47)年に消防士採用試験を受け合格。4年後に消防士長に昇格するなど真面目な仕事ぶりが評価されていた。
ここまで書くと、結婚を境に真面目に働き、家庭を築こうと努力した男の様に見える。もしもそうならば、消防士になって10年後、名古屋でひったくり事件など起こさないはずである。折角手に入れた公務員という安定した地位を、前科者ある勝田がそう簡単に手放すはずもない。彼が落ちぶれた理由は『甘さ』があった。
時は高度経済成長期。車を持ち、家を買うことが当たり前になった時代である。
勝田も例外ではなく、家も豪華なマンションに移り住み、高級スポーツカーを乗り回す様になった。
しかしこれらの豪遊ぶりは本業の消防士の稼ぎではなく窃盗という副業から来ていた事が後に明らかとなる。虚栄心がある勝田の金遣いは荒く、消防士になったその年の’72年から借金で首が回らなくなっていたのだ。
勝田は昼間は消防士をしながら空き巣や車上荒らしをしていた。その件数何と500件以上。やがて勝田の犯罪はエスカレートし『盗みを気付かれると目撃した人間を殺す』という手口に及んでいった。これが勝田が後に『連続殺人犯』として恐れられる原因となる。
狙うターゲットは常に高額の現金を持ち歩いているという事から水商売の女が多かった。最初の犠牲者は’72年、京都市山科区のアパートに住む24歳のホステス。強姦絞殺し財布に入っていたはした金を奪って逃げたという。
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それに味をしめたのか、勝田はホステスやクラブ経営者から現金10万円~12万円、マージャン店のパートの女性から4万円、美容院の店員から45万円相当のダイヤ、労金、信金の男性から400万円を強奪殺害するなど、懲戒免職になるまで5人も殺していた。
昼間は優秀な幹部候補生の消防士、夜は連続殺人犯という二つの顔を消防士になりたての頃から持っていたサイコパスだった。
だがそんな彼が定年退職するまで消防士で居られる程、世の中は甘くない。勝田は、1980(昭和55)年11月、大阪で8万円を盗み逮捕され、懲戒免職となった。引ったくりのくせが仇となったのだ。
だが勝田の犯罪壁は収まる所を知らず、懲戒免職になった年に、名古屋市内のスーパーに強盗に入り、店長を殺害し現金450万を奪い逃走。
2年後、警察官を交通事故で呼び出し、警官を車で轢き、奪った拳銃で浜松市のスーパーに押し入り強盗を働くも失敗し逃走。同じ日に大津SAで車を奪い車の持ち主を殺した。
勝田が消防士を免職になった後の一連の傷害事件は『広域重要指定113号事件』と認定され広域捜査が行われる事となった。
勝田の連続殺人事件で、実際に命を落とした被害者は22人にのぼるとされている。だが物的証拠が揃い立件されたのはたった8件。残り14件は証拠不十分で迷宮入りしてしまったのだ。
11年間に22件の殺人を犯し、豪遊していた男が何故捕まらなかったのか。
当時マイカーが急速に庶民に広がった時代で、警察も車を使い広範囲に連続殺人を突発的かつ長期にわたり犯す犯人が居るとも思わなかった事が挙げられる。
同時に、事件が他府県に、またがっていた為、県警間で情報をシェア出来なかった事が最大の要因だろう。広域捜査が指定されたのは、勝田が逮捕される間際の事だ。
勝田は、4件目の殺人事件である麻雀店の女性店員を殺してから6日後、1977年7月6日に、クイズ番組『夫婦でドンピシャ!(朝日放送)』に妻と共に出演していた。
同年の8月20日に放送されたこの番組、まさか収録の一週間前に人を殺しているとは誰も思うまい。
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勝田は番組に消防士として出演。妻をベタホメしノロける一面を見せ明るく平凡な亭主ぶりを見せていた。この番組でも夫妻は賞金8万円と商品券10万円を獲得。
この頃は仕事も上り調子で、消防士長に昇格したばかり。救難救助訓練では20回以上も表彰を受け、全国競技大会には2年連続で入賞していた頃だった。
それと同時に、TV番組に出演した時期の後、勝田は銀行員を襲い大金をせしめ、以後3年程ぴったりと引ったくりをやめている。
これは本職の消防士として責任ある地位についていたこと、愛人の存在を知った妻が自殺未遂を起こし、愛人や車に費やす金の工面どころではなかったかららしい。
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だがそんな向上心も3年と持たず、勝田の虚栄心は根強く、強盗やひったくりで得た金で、’80年には280万円のトランザムと50万円のゴルフ会員権を購入。
懲戒免職となり、妻と家庭内離婚状態になりトラック運転手に転職した後も、82年には愛人と同棲を始め、ガゼールとトヨタクラウンスーパーサルーンを購入するなど金使いの荒さは全く変わらなかった。
では何故、勝田がここまで虚栄心の固まりとなり戦後犯罪史上に残る33もの罪状に問われる事になり、また本人が自供したのか。
勝田は少年院上がりという事で、どこに就職しても職場内で盗みがある度に犯人扱いされた。
仮出所の時に初めて務めた自動車整備工場でも犯人扱いされ辞め、その後は奈良の運送会社に勤務したが、そこで一勧業銀行の女子行員(19歳)暴行殺害事件が起こり、勝田が疑われ、ここでも辞める事となる。
勝田は消防士の採用試験を受けた時は前科を隠して受けたというのだ。
京都市消防局は、勝田の前科を採用後に把握したというが、めきめき出世する勝田を目の当りにして、大目にみていたという。
当時の京都にはそうしたおおらかさがあったのだろう。三度目の正直だった消防士で真面目に働きとおせば勝田の人生は開けたかもしれない。だが彼は自分の人生は『他人にバカにされている』という思いが抜けなかったという。
その為金を貰っても煽ててくれるクラブホステスに溺れていったという事になる。自分を褒めてくれるホステスの気を引く為に金をつぎ込んだ結果、人生を棒に振ったという事になるのだ。
勝田が自供したのは、現場検証で捜査員がさりげなく握り飯を分けてくれるなど、自分に対する小さな心遣いに接するうち、良心の呵責にさいなまれるようになっていたからだという。
獄中日記『冥海に沈みし日々』で勝田は、『告白しない自分自身に、もはやごまかしが通らなくなっていた』と書いている事から本心である事は明らかだ。勝田は獄中日記の印税を遺族への弁償金にあてるつもりだったが、全く売れず絶版となってしまう。
この獄中日記を読んだのが、名古屋市在住の来栖だった。来栖は勝田と自分の実母を養子縁組し、勝田は、藤原清孝とし、2000年11月30日名古屋市拘置所で死刑執行を受けた、享年52歳。
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獄中に居た勝田に600通もの手紙を送り、200回も面会に来た来栖を勝田は唯一『生涯の友』と呼んでいた。
そう、勝田に足らなかったものとは友情なのかもしれない。彼を早くに理解する友人が居れば世にも恐ろしい連続殺人は起こらなかったのだ。