世の中には、お騒がせな生き方をしながら、摩訶不思議な死に方をしている人たちがいる。
今回は、歴史上未解決事件扱いとなった殺人事件、自殺を取り上げてみよう。
1:アル・スウェレンジン
©wikipedia
米国では’04年~’06年にかけてHBO系で『デッドウッド 〜銃とSEXとワイルドタウン~』という題名で放映されたこの題材。
アル・スウェンジンは、20年以上も元々インディアンの居住区だったデッドウッドで『至宝酒場(Gem Theater)』と売春宿を経営していた荒くれ者。
1899年に、酒場が二度の火災に遭い、文無しになったスウェンジンは、故郷のアイオワ南部オスカルーサに帰った。
それから5年後、スウェンジンは貨物列車に飛び乗ろうとして死んだと言われてきた。
しかし、’00年を過ぎてから歴史学者の手により、スウェンジンは殺されたのではないかという説が浮上してきている。
’07年、デッドウッドにあるAdams Museumの歴史学者ジェリー・ブライアンによると、死んだとされているのは、スウェレンジンの前の売春宿のオーナーで、前の売春宿のオーナーの遺体の骨の一部がデンバーで見つかったという。
では、スウェレンジンの遺骨はどこで見つかったのか?
スウェレンジンには、双子の弟Lemuelが居た。
彼が僅か200ドルを奪って、兄を拳銃で撃って逃走したという説が浮上した。
双子の弟の動機は、兄のビジネスを手伝わされていたのに、何の見返りもなかった復讐だったと言われている。
2:ジェームス・ダグラス・エドガー
©Enening Chronicle
ゴルフ創世記に PGAツアーを三度も制覇したゴルファー、ダグラス・エドガー。
彼のキャリアは派手であると同時に、死も突然で、謎に包まれたままだ。
ツアー優勝が1919年、事件が起こったのが1921年8月8日。
3人の男性が家路につく時に、道端に倒れている男性をみかけた。その男性はダグラス・エドガーだった。
第一発見者のComer Howellは、エドガーの左足に傷があるのを見て病院に運んだが、エドガーは死亡。
司法解剖の結果、エドガーの左足に傷はないにも関わらず、太ももの付け根の血管から内出血していた。
エドガーの事件は、殺人事件として捜査に回される事になったが、確かな証拠は挙がらなかった。
ただ彼は、ギャンブルが好きだった上、人妻にも手を出す男で、もしも殺されたとしたなら、痴情のもつれという線もある。
3:オッタビオ・ボッテキア
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1923年にイタリアの自転車レースで5位にランクインした後、同年ツール・ド・フランスでイタリア人初のステージ優勝を飾った自転車競技選手。
’24年には総合優勝の選手に与えられる黄色のジャージ『マイヨ・ジョーヌ』を受け取るなど順風満杯の人生を喰っていたボッテキタの人生の墜落は謎かつ急だった。
マイヨ・ジョーヌを授与した後は、急速に成績が伸び悩み、’26年には競技を辞退。
’27年6月、オソッポという町に向かう途中でボッテキアは頭蓋骨を骨折した状態で発見された。
当時彼は、ファシズムの象徴であるとされ危険視され殺されたという説と、ボッテキアが葡萄を盗み喰いしようとしていた為、農家の者が石を投げたら頭に命中して死んだという説の二通りがある。
どちらが本当であってもありがたくない話だが。
4:ハイム・アルロドロフ
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シオニストのリーダー的存在だったハイムは、ナチスドイツだけでなく、アラブ諸国、ユダヤ教徒の中にも彼の敵は大勢いた。
ハイムは、1933年6月16日、テルアビブのホテルを妻シマとチェックインした後、おかしな英語で『今何時ですか』と聞いてきたものに撃たれたという。
警察はシオニストに反対する第一勢力の首謀者Arraham Stavskyの仕業とみて逮捕するが、捜査を進めるにつれ、ハイムの最初の妻、マグナ・ゴッペルが犯人である事が判明。
マグナは、ハイムと同じユダヤ人だったが、優れたものしか救わないというハイムの考えと合わなかったという。
5:エリック・ヤン・ハヌッセン
©Richard Lewinsohn
ナチスが台頭する前のドイツ、ヴァイマル共和国時代に奇術を使い、預言者を自称していたハヌッセンは、オカルト好きなヒトラーのお抱えとなった。
ウィーンのカフェで習った奇術を、突撃隊幹部の前で披露し信頼され、軍部に人脈を築いたハヌッセンは、オカルト雑誌を発刊したり舞台を開いたりし、印税で屋敷を建てた。
ドイツ国会議事堂放火事件では、放火犯人マリアス・ファン・デア・ルッペに催眠術をかけて、わざと放火させるという事もやった。
しかしそれが裏目に出て、ヒトラーに権力を握られると恐れられ、1933年3月25日、ハヌッセンは、妻共々暗殺され、シュターンドルフに遺体を捨てられたという。
6:セシル・ハンボロー
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証拠不十分で犯人釈放というミステリーの一つに『アードラモント殺人事件』がある。
1893年スコットランドのアーガイルで、当時20歳だったセシル・ハンボローの後見人兼家庭教師として雇われたアルレッド・ジョン・モリソンが殺人犯として容疑に問われた。
彼ハンボロー、友人のエドワード・スコットと共に、アートラモンド・エステートに狩猟に出かけたが、その時、柵を超えようとしたハンボローが誤って自分の銃で自分の額を撃ち抜いた、つまり事故が起きたというのだ。
警察側は、事件の6日前にハンボロー名義で2万ポンドの保険がかかり、受取人がモリソン夫人になっていた事から、モリソンに保険金殺人容疑をかけた。
事件の検察医ジョセフ・ベルの解剖の結果、モリソンは無罪となったが、真相は闇に包まれたままだ。
ちなみにこの時の検察医ジョセフ・ベルは、シャーロック・ホームズのモデルとされている。
7:ガレス・ジョーンズ
©Wales Online
ウェールズ人のジャーナリスト、ガレス・ジョーンズは、英国外務省出身の官僚ながら、19世紀の戦争の汚点を隠す事無く命を張って知らしめたジャーナリストの一人だ。
1932年~33年にかけてソ連スターリンの政策によりウクライナ人が強制移住させられ人工的大飢饉に陥った『ホモドモール』を伝えたのも彼である。
彼の書物はウクライナでオレンジ革命が起こるまでソ連で発禁処分となり、ガレスは戦時中満州に渡り、今度は日本の傀儡国家を伝えようとしていた。
しかしガレスは現地でドイツ人ジャーナリストと合流後、取材を続けていたが、1935年8月12日、終戦の日を見る事無く、現地で殺された。
もしも彼が生きていたら戦争の流れは違っていたかもしれない。
8:ジョージ・ ハリー・ストーズ殺人事件
©Strage Conpany
1901年11月1日、東マンチェスターのステイリーブリッジに住む、裕福なビジネスマン、ジョージ・ ハリー・ストーズが殺された。
彼は殺された日の晩、家に妻と姪と居て、銃で脅され15箇所殴られた末に殺された。
当初、ジョージ氏は密室で殺され、家人は気付かなかったという推理の元、捜査されたので、容疑はハリー夫人の甥・Cornelius Howardにかかった。
が、その日の晩、Howard氏は、別の場所で開催されていたドミノ大会に出場していた事が発覚、アリバイが成立した。
警察は、その後刃物を持ってうろついていた不審な若者Mark Wildeを逮捕するが、彼にも動機はなかった。
その後、ジョージの親族でドイツ人の官僚のMaria Hohlが自殺。
彼女は、ジョージと不倫していて彼の子供を身ごもっていたというのだ、事件そのものは迷宮入りしてしまったが、真犯人は彼女である事は間違いないだろう。
いかがだろうか。
世の中の未解決殺人事件は、痴情のもつれや、金の切れ目が運の切れ目というのが多いというのが判る。
豪快に遊んだつけは、いつか回ってくるというものだろう。
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